海月ひかり②について。

 

全国発売から一ヶ月も経っても、この作品への情熱や興奮が冷め止まない。制作過程や、リリース後の周囲の反応も含めて、

私にとって大きなステップアップにつながった。

今更ながら、いや、これからこの作品と出会う方々へ向けて、「海月ひかり②」について少し解説させて欲しい。

 

2014年4月に、海月ひかりの第一作目『海月ひかり①』をリリースした。福岡、広島、札幌のタワーレコード限定発売。(現在はタワーレコード新宿店でも受注出来る)。これには首を傾げた人もたくさんいて、裏話では関係者からちょっとしたお叱りを受けたほどの「問題作」となった。

”立て続けに二作目をリリースしたい”という、明確な目標から、第一作目の選曲やコンセプトを決めた。

①は”裸”、②で海月ひかりに”服”を着せようと思っていた。五月から制作を初めて、録音を終えたのが八月末。納品まで期日がタイトで、エンジニアの坂口さんにはご苦労をお掛けした。パッケージのデザインも締め切りのぎりぎりで、広島のタワーレコードでインストアライブをしている時も、内心では「本当に間に合うのか・・・」と言う不安に満ちていたのだ。

 

ハプニングやトラブルはたくさんあったが、このCDの代表曲「千鳥橋」の歌は最高のものが録音出来たと思っている。

すべて、制作チームのおかげだ。この作品に携わってくれたみんなが、私の作ろうとする音楽に忠実で、とても誠意的だった。「こっちのほうがいい」と口を挟む人がいれば、すぐに反論してしまう私の性分を知っているからなのか、または本当に私の感性を信じてくれていたからなのか、やりたいことをやりたいままにやらせてもらった。人と音楽をやるのが苦手なのだ。

もともと、妙に神経質で、自分のなかに決め事をいっぱい持ち合わせていたので、よく言う「化学反応」みたいなものを起こすことが出来なくなっていた。制作チームから伝わるこの作品への誠意が、その”壁”をようやく超えさせてくれた。『千鳥橋』の録音中、最後のフェイクを歌いながら、自分でも鳥肌が立った。体の奥から竜巻のように声が溢れる感覚。本当の意味で、私の歌に、魂が宿ったと感じている。

 

満足ではないが、これまでの自分の音楽に納得した。「伝えたい気持ち」をちゃんと表現する為のスキルアップ。自分という生き物の内側に目を向けつつも、外側にも目を持つという奇妙なバランス感覚を鍛え、必要な技術を過多にならない程度に取得する。いい音楽を生むんだ!というモチベーションを必死に保ち、23歳から約三年間、体調不良で満足な音楽活動が出来ないジレンマや、大人になり「上質」が問われるようになったことへのプレッシャー、その他私生活からも飛び込んでくるたくさんのマイナス要素も、”目標”を明確に持つことで乗り越えてきた。誰かの何かを待っていても、私の音楽が花開かない。自分で世界と闘う。自分の音楽を守れるは、自分自身だと、思い切り手首をひねって絞り出した『海月ひかり』という作品集。

 リリースから、跳ね返って来たのは「自信」。音楽の神様から、音楽と生きる許可をようやく頂けたようだ。

 

『海月ひかり②』は学生時代を過ごした福岡で書いた楽曲を中心に選曲した。音楽を作ることに最大のエネルギーを注いでいた当時、私は取憑かれたようにオリジナル曲を書き、ライブ活動を勢力的に行っていた。当時知り合った恩師の影響で、日本のロックバンドをよく耳にし、その頃に受けたロックへの「初期衝動」を、この作品のコンセプトにしていた。私は音楽で食べて行くんだと!決めた、あの衝動。暗中模索をしながら、自分の未来を切り開こうと必死だった。若さ故のトゲも鋭く、身内にはずいぶんと心配をかけていたが、二十歳の私は頭を坊主に丸めて、その”粋”が認められて、東京の大手レコード会社から声がかかるというエピソードもあった。学生という不安定な時期を経て、もしあの頃、ロックに出会っていなければ、今の私はいないと確信している。

音楽で生きて行く。生きていることの全てを叫び、打ち鳴らす。この作品集への注ぎ込んだ二十歳の魂。挑戦と失敗を繰り返し、音楽にしがみつきながら生きて、二十代後半にさしかかった今、期待以上に”私”は仕上がった。

 

「海月ひかり②」

低迷を続ける音楽シーンへの宣戦布告だ。

なんのために闘うのか?自分の信じているもののために、闘うのだ。いつか全てカタチになる。

その時に、またこの作品を聞き返して欲しい。きっと私の信じて歌って来たものの本質を、貴方も知る事が出来るだろう。

 

 海月ひかり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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